寺歴と由来

紋

開基である結城秀康公は、その誕生から没するまでの三十四年間波乱万丈な生涯を送りました。母於万の方は、家康公の正室築山殿の奥女中でありました。秀康公を身籠ると築山殿を気づかい重臣の本多重次の屋敷に匿われ、そこで秀康公を出産いたしました。家康公の次男として誕生しながら、父との初対面は三歳の時。不憫に思った兄信康公の取計らいによるものでした。数年後その兄が亡くなり、本来であれば秀康公が徳川の後継者となるはずでしたが、十歳で豊臣秀吉の下へ養子に出されました。これは小牧・長久手の戦の後の秀吉・家康公間の和解条件でありました。幼少の頃より文武に優れた秀康公は、養父秀吉の評価も高く、若年でありながら武勇に名を馳せました。秀吉に実子が誕生すると、婚姻により下総国結城家の家督を継ぎ、実父家康公の下へと戻ることになりました。

秀吉の死後起こった関ヶ原の役では、西上を懇願するも却下されました。秀康公以外に関東へ残す陣営を任せられる人材はないと判断されたためか、上杉景勝を牽制する留守居の役目を与えられました。その大役ゆえに合戦後の増封高は第一位で、このとき越前六十七万石の藩主となりました。江戸から遠く離れた越前での臨終に際して秀康公は、一乗院住職万世和尚に自分の死後に江戸の地に一寺を建立し、自らの位牌所とせよと命じました。

ご位牌この遺命を託された万世和尚が高齢だったため、弟子の清譽存廓上人に託して、慶長13年(1608年)に當寺を開山。その建立にあたっては隣接する北沢八幡別当寺とし、森巖寺一帯は天領となりました。そしてその八幡を山号、秀康公の法名浄光院殿森巖道慰運正大居士にちなんで浄光院を院号寺号として、八幡山浄光院森巖寺と命名されました。徳川家の位牌所の多くは天下泰平後に創建されていますが、森巖寺はその直前に建てられた由緒ある寺院です。

本堂は二度の火災に遭いましたが、ご位牌は阿弥陀如来の元にある厨子に安置されています。徳川家の位牌所のひとつであるため、建造物などのそこかしこに三つ葉葵の紋が見受けられます。昭和の始めまで秀康公と関係の深い松平家の子孫が年一回森巖寺を訪れ、それを本堂からつながる奥行きの長い玄関で迎え、葵の紋の入った漆塗りの食器でおもてなしをするのが恒例だったと言われています。またかつては淡島堂で行われていた施灸も有名でありました。山門に掲げられる『粟嶋の灸』の看板は、その名残です。

阿弥陀如来